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■104 2004年、暮れに、思いつくまま。 2004/12/30

 思いつくことを、思い出すことをただ一向に書き連ねてみる。
 写真。カメラ。レンズ。幾枚、幾十、幾百、幾千枚という写真。何枚連ねてみせても枠を越えられた気はしない。果てしないテーマ。永遠の目的。
 カメラ。デジタルは一眼と携帯。十分事足りる。筆を選ぼうが選ぶまいが、弘法は弘法たり得るのだ。そして俺はしがない写真野郎。如何な筆を執ろうともそれで腕が上がることはなし。そういうものだ。人からカメラを戴いた。この上ない幸甚。このような下賎の輩に過ぎ足る幸福。幾度とない感謝。
 レンズ。懲りもせず増える。この暮れにまでまた買ってしまった。使うレンズはせいぜい5本程度なのに、その倍は所持している気がする。救い難し。思い出しただけで標準は4本、広角も4本。阿呆の所業。そう、我は写真馬鹿である。

 人との出会い。様々な人と出会った。とりわけジャンルの違うアーティストと、本気でのし上がっていこうとするアーティストと出会えたことは写真馬鹿としても幸せなことだ。勿論一介の馬鹿者としても、心ひかれる音に出会えたことは幸いである。返せるものはほとんどあるまい。できることは足繁く通うことと写真を撮ることだ。
 食い物をとおして、写真をとおして、ネットを通して、多くの人と知り合えた。人に触れ、感性を刺激することは似非芸術家としても肝要なことである。
 そして今までも出会っていた人達。微妙に距離感が変わったような人もいる。けれど、なるべくなら善き人と縁遠くはなりたくないものだ。

 あの人。あの人のことを考える時、己はいつも二つの考えを抱く。
 あの人の側にいたい。楽しさを分かちあいたい。嬉しさを共感したい。苦しみを救ってあげたい。愛しみを伝えたい。あの人の幸福だけを願いたい。あの人の笑顔の側にいれば、その笑顔のためならば痛みなんかなかったことにできる。此の身此の心の痛みなど、あの人の幸福の前に微塵の意味もない。
 己が何をしてやれるというのだろう。側にいて、重荷になるだけではないのか。此のような生来のロクデナシが、人に幸福を与えうるとでも言うのか。烏滸がましい。あの人が与えてくれる限りない喜びの、 そのどれだけをあの人に返せていると思っているのだ。事実、あの人は「そう思われること」を重荷だと言ったのだ。そんな己が、傍らにいて何の役に立つというのか。
 たまに帰りの電車で一緒に他愛もない話をする。それだけで過ぎたる幸運と思い、しかしそれ以上に話したいとも思う。一人で帰る時、あの人が傍らに居てくれればと思う。しかし、その一方であの人がこんなロクデナシと関わらずにいる方が幸せなのではないかと思う。一緒に居たいと思いながら、一緒に居るべきではないのかと思う。絶え間無く続く矛盾。永遠の二律背反。
 良いことも悪いことも、すべてを同時に2面で捉えてしまう。あの人の一挙手一投足に思い悩む。数多のことを考えるくせに、答えが出るのが果てしなく遅い。そしていつも闇に落ちていく。

 考えることを放棄したい。しかし考えることは放棄できない。考えなければ我は我でなくなるのだ。存在の前提を否定すれば、それはもはや自分ではない。そう思うことに恐怖する。考え、悩み、思い、戸惑い、一歩先に進んだかと思えば同じところに立ち戻り、出口も、戻る道も見失い、いつしか闇に堕ち、闇の中で淡い光りにすがり、ほんの一時照らされた、仄かな道を、頼りなく手探りで歩む。

 きっと自分は変わった。でも変わっていない。多くの人、多くのもの、多くのことに出会い、様々なことに触れ、きっと今年初めの自分と今の自分は違っている。でも、恐らく、相変わらず、自分は自分で、くだらないことを好み、気心知れた友人と馬鹿笑いし、どうでもいいことに一喜一憂し、のうのうと生き延びていくのである。
 矮小な此の身は、世界から多くのものを享受し、そしてほんの僅かに世界に還元する。きっと次の一年も、斯様にのうのうと、生きながらえていくことだろう。世界と、そしてあの人が、ハッピーでありますように。



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