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■100 中華まんを食べつつ思う 2004/10/17

 いよいよ秋という風情を醸し出してきた昨今であるが、季候の変化によって食う物も変化する。すなわち暖かい物が食いたくなるのであり、その手軽さにおいて中華まんを超えるものは私にはない。
 そういう堅苦しいのは抜きにして、これからの季節はやはり中華まんを美味しくいただく季節なのだ。そういった背景を後からこじつけつつ、私はその日中華まんを購入した。勿論私が買うからにはカレーまんに相違ないのである。

 私は今し方コンビニで買ったカレーまんを手にしている。朝食兼昼食という大義を持ったカレーまんである。それに一口かぶりつく。はむ、という音が自分の脳内で合成される。カレーまんにかぶりついたまま食べようとしない私がいる。何せ大義を背負ったカレーまんである。その辺の有象無象と一緒にはできない。一口一口を八百万神に感謝を捧げつつ食わねばならない。と思った訳でもなく。何のことはないのだが、かぶりついたとたんに妙に満たされた心地になって動きが止まったのである。
 まだ口にくわえただけであるのに、不思議と満たされた心地になるのである。勿論腹は満たされてはおらんのだが、何かしら満足感めいたものは感じるのだ。
 一口二口と食いつつ歩きつつ連々と考えてみた。暖かいからか柔らかいからか。すっぽりほお張る感覚がいいのか咥えただけで空腹は満足感を発しだすのか。延々と益にもならぬことを考えながら半分位食ったところでふと思った。

 これはアレか。おっぱいにかぶりついたような心地になって気持ちいいのか。そういえば暖かくて柔らかくて非常にいい塩梅である。だとすればこれは半ば本能的な充足感であると言ってもいいのだろう。ということは人は中華まんを食しながら母に抱かれているのだろう。あのおいちゃんも女子高生も、小学生くらいのガキンチョも、すべからく中華まんを食う人はその実赤子のような本能で貪り充足しているのである。なれば中華まんこそは人類の生み出した英知の結晶と言っても過言ではないだろう。

 などと心底どうでもいいことを考えていたからか。最後の一口でむせ返ってアスファルトに落としてしまった。あ、と言った瞬間にはもう遅い。カレーまんの最後のひとかけらは、カレーまんだったものとなってしまった。八百万神に何と釈明すればよいのだろう。我らが英知の結晶に何と申し開きをすればよいのだろう。そんなことは微塵も考えず、ただ繰り言のように勿体ない勿体ないと呟きながら家路を急ぐだけなのだった。所詮は中華まん、ただ空腹を満たすだけのものである。人類の英知などは暇つぶしに考えていればよろしい。英知よりも今日のメシ。それが俗人のあるべき姿である。そして駄目人間は最後の最後でしくじるような駄目っぷりこそがそのあるべき姿なのである。



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